あの日から
東日本大震災から12年が経ちました。
先週までは何度も聞いた言葉。そして今週になるとほとんど聞かなくなった言葉です。
私は当時、岩手県沿岸に住んで勤務していました。私のいた場所は地震よりも津波の被害が甚大。私も地元の方々に導かれ、高台に逃れました。
その後、山伝いにアパートへ。何とかアパートは無事だったものの、職場は浸水し半壊。切れた電気器具の時間から本当に逃げた直後に波が来たようです。
あの地響きは今でもぞっとします。また、相変らず津波の映像を見ると吐き気とストレスを感じます。ひどい時は「AC」の音も。
後に知ったことですが、当時行方不明者リストに名前が載っていたとのこと。
海無し県出身者の津波
埼玉で生まれ育ちました。沿岸に勤務、職場の長を任されて元気にしておりましたが、正直
「高波注意報」
「高潮注意報」
「波浪注意報」
「津波注意報」
の差がわかっていませんでした。
職場の長という事で、一緒に働いていた仲間に対し、「避難!」という号令を発するのに躊躇してしまったのも事実。運よく人的被害はなかったものの、今でも冷や汗です。
普段からできる事
海無し県出身だから、という事ではありませんが、避難路と避難場所はあらかじめ知っておくことが良いです。避難する時間が真夜中で大雨の事もあります。「Youtube」でも近くの避難路を確認できます。ぼーっと街並みを眺めるだけでも旅行気分で見ることができます。
https://youtu.be/5GVRoN1Ed5M
携帯電話もスマホは大丈夫でも、山やビルの上のアンテナのバッテリーが切れてしまい、通信できず。やはり複数の連絡手段の確保は必要です。
津波でんでんこ。助けに戻らない!
これは難しい所ですが、津波後「助けられたかもしれなかったのに、助けなかった」と自責に悩む人と多く会いました。ある人は目の前で家族が流されていった人も。
医療職の一人として、また家族の一員として言えるのは「助けるのは生き残ってから」です。
とくに、多くの被災者が言うのは「戻っては絶対ダメ」。
助けに行くのは津波や地震がおさまってから。飛行機でも、子供の酸素マスクをする前に、親が先に酸素マスクをするのも同様。助けられる人をまず生き残らせてから。
津波は他人を助ける練習よりも、逃げる練習を!
最近ニュースで小学生が近所のお年寄りを津波などの震災で助ける練習をしている、というのを聞いて驚きました。
年寄りを助けるのは避難所で。生き残っている人を助けるならまだしも、危険な場所に小学生を、というのは無責任すぎます。
その小学生も「助けるはずが、逃げてしまった」と一生後悔しかねません。
津波などの天災は「まず安全な場所に逃げる」というのを練習し、他の人を助けるのは二の次です。
津波も大変。次の日からも大変
私の住んでいたアパート。3月11日に全てが崩壊。
その後、3日後に水道復旧。5日後に電気が復旧。携帯は10日かかりました。
その後の「ぽぽぽぽ~ん」や「子宮頸がんワクチン」ばかりのテレビ。本当に嫌でした。数日昼夜問わず大きな余震。
役に立ったのは、寒い中で灯油ストーブは本当に命綱。温かいご飯が食べられるのは幸運でした。
余震の中、美味しそうな食物が並んだバイキングの夢を何度か見てしまう程。
手も十分に洗えない中で寒さや震災廃棄物、油と泥を片付け、時々余震や津波注意報も。落ち着くまでにはかなりの時間がかかりました。
今でもテレビラジオでは3月11日を過ぎると「なにかあった?」と言わんばかりですが、私にとっては3月11日がスタートとして地獄の復旧生活。人間の嫌な面を様々見せつけられました。
高校生の動画に見る、震災後の日本社会の問題点
最近、高校生が東日本大震災の被災者をなじっている動画が放送されました。私は彼がその震災を知らない事で良かったと思っています。別に彼を非難する気持ちはありません。
現に同県で内陸の人たちは「大したことなくて良かった」と言っている人もいました
問題は、それを放送するマスメディア。こんな若者がいますよ!と同調圧力をかけているようです。それよりも、津波が起きたらすぐに高台へ逃げる、戻らない!という事をもっと伝えてほしいです。
まとめ(AIにて作成)
・ 急いで助けに戻るのは危険であり、生き残るためには先に逃げることが大事。
・ 天災の練習では逃げることを優先し、他人を救うのはそれよりも後回しにする。
・ 余震、寒さ、清潔な物が手に入らない生活に苦しんでいたが、暖房器具や温かい食事は命を繋いだ。
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