論語の言葉から
語彙力と説明力の課題
最近、自分の語彙力や説明力の不足を痛感しています。
ある先生からいただいた「詩を学ぶのは、言いたいことを美しく伝えるため」という言葉が、特に胸に響いています。詩や俳句、短歌といった表現は、言葉を通して自分の感情や情景を相手に伝える技術であり、その精度を磨くことで、より豊かに自分を表現できると感じています。
巧言令色、鮮いかな仁とは
ここで、孔子の論語にある「巧言令色、鮮いかな仁」という言葉を紹介したいと思います。
「こうげんれいしょく、すくないかなじん」とは、前半の「巧言令色」は、美辞麗句を並べて、いかにも人のためを思っているように見せることを指します。いわゆる、借り物の言葉で取り繕っている状態です。そして後半の「鮮いかな仁」は、そこに真心がなく、相手への思いやりの心「仁」が欠けていることを意味します。表面的にいくら美しい言葉を並べても、それが本質的に相手を思いやるものでなければ、ただの虚飾に過ぎません。
現代社会における例:福祉と消費税
この言葉は現代社会にも深く通じるものがあります。たとえば、30年前に消費税が導入された際には「福祉のため」という美しい言葉が使われました。税率が引き上げられる際も同様に「福祉のため」「老後のため」という大義名分が掲げられましたが、実際には福祉に従事する人々がその労働に見合う対価を得ているかは疑問です。美しい言葉を使いながらも、そこに実際の思いやりがあるかどうかを見極めることが必要です。
人間関係における「仁」の心の重要性
私たちの日常生活や人間関係でも同じことが言えます。普段からきれいごとを並べる人は、往々にして信頼を失いやすいものです。勢いよく大声で主張する人ほど、自分が正しいと信じていますが、そのような言葉はしばしば相手の心に届かないことが多いです。本当に大切なのは、相手を思いやる「仁」という心であり、この心を持った言葉こそが相手の心に深く響くのです。
インターネットやマスメディアにおける言葉の問題
さらに、インターネットやマスメディアで流される言葉についても考える必要があります。現在、ネットやテレビでは、感情的で断定的な言葉が支持を集めがちです。過激な意見や断言、他者を打ち負かすような発言が、しばしば注目を浴びます。しかし、そのような言葉には「仁」の心があるのでしょうか?相手の立場や感情を考え、思いやりを込めて発言しているでしょうか。
残念ながら、多くの言葉がただ感情的な反応や注目を集めるために使われていることが少なくありません。例えば、マスメディアの報道では、センセーショナルな内容が強調され、事実や背景が十分に考慮されないことがあります。そのような報道に触れた視聴者は、一方的な情報を受け取り、時には誤った認識を持つことになります。ネット上でも、過激な言葉や感情的な言い争いが目立ちます。相手を言い負かすことが目的となり、相手の立場や気持ちを理解しようとする姿勢はほとんど見られません。
ではどうするか?
このような状況下で、私たちにできることは何でしょうか?まず、言葉を選ぶ際に相手の立場を考え、思いやりを持つことです。簡単なことであっても、言葉に「仁」を込めることで、相手に対してより深い影響を与えることができます。また、情報の受け手としても、表面的な言葉やセンセーショナルな意見に流されるのではなく、言葉の背後にある意図や思いやりを見極める努力が求められます。
言葉の力と責任
現代社会において、私たちは情報の洪水の中にいます。特にインターネットでは、誰もが自由に発言できる環境が整っています。しかし、その自由には責任が伴います。私たちが発する言葉が、どのような影響を与えるのかを常に意識し、相手を思いやる「仁」の心を持って言葉を選ぶべきです。
まとめ
孔子の論語にある「巧言令色、鮮いかな仁」を取り上げ、現代社会における言葉の使い方について考えてみました。口先だけの美辞麗句には重みがなく、真の思いやりが欠けています。特にインターネットやマスメディアでは、感情的で断定的な言葉が多く見受けられますが、そこに「仁」の心があるかを見極めることが重要です。言葉は人を傷つけることも、励ますこともできる強力なツールです。相手を思いやり、心を込めて言葉を大切に使っていきましょう。
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