近年、ネット上でもリアルの現場でも、「サービスを受ける人」よりも「サービスを提供する側」のほうが多くなってきているように感じます。スキルシェアや副業ブーム、オンライン教室、SNSを使った無料配信……誰もが何かしらの「提供者」になれる時代。それ自体はとても素晴らしい流れなのですが、ここにひとつ、大きな落とし穴があると思うのです。
それが、「無料」にまつわる誤解と依存です。
私が特に危機感を持っているのは、日本語教育の現場や、個人相談・指導に関する分野。特に最近では、日本語教師の価格競争が一気に進み、「1時間500円以下」や「初回無料」といった文字を見かけることも珍しくありません。もちろん、趣味で教える人がいてもいいし、初回無料でお試しできる仕組みも合理的ではあります。
でも、忘れてはならないのは、「サービスを提供するには、それ相応の時間とコストがかかっている」ということです。
例えば、法律相談を受けるためには、その人は弁護士資格を取得するために法学部で学び、予備校に通い、試験に合格するまでに何年もかかっているはずです。健康相談も同じ。医師や薬剤師、栄養士など、それぞれが国家資格を取得し、実務経験を積み重ねて初めて、的確なアドバイスができるようになる。
日本語教師もまた、教えるために多くの時間を使って研修や試験、実習を経ています。私自身も、かつて日本国内で「日本語教育=ボランティア」という空気の中で無償で教えていた経験があります。その精神自体には意義を感じていましたが、結果的にそれが「無料でも当然」という社会通念を生んでしまったようにも思うのです。
そして今、その延長線上で、資格やスキルを持つ人たちが「無料」で相談や授業を提供する流れが加速しています。
「好きでやってるんだからいいでしょ」 「教えること自体が喜びなんでしょう」
そんな言葉が飛び交うたびに、残念に思います。
確かに、教えることが好きです。喜んでもらえるのも嬉しい。でもそれは、「無償で」やることとはまったく別の話。提供する側にも生活があり、時間があり、蓄積してきた努力がある。その価値を、「無料だから」と軽く扱われるのは、あまりに残酷です。
もっと言えば、無料のサービスが溢れることで、真面目に取り組んでいる人たちが正当に評価される場が失われてしまいます。価格を下げれば下げるほど、労力や質は削られ、やがてはその分野自体が衰退してしまう。
「サービス精神」という言葉があります。昭和の時代、この精神はとても大切にされていました。丁寧に、心を込めて、相手をもてなす気持ち。今でもその理念には大きな価値があります。
しかしその一方で、「過剰なサービス精神」が、現代においては「自分自身の首を絞める」結果になっているのも事実です。善意や使命感が“搾取される構造”を生み出してしまっているのです。
バブル以前の老害が「おもてなし」などと喜んで、無償の歓迎を「美徳」と世界に売り出しました。「やりがい詐欺」にも似たことが感じられます。
私たちは今、見直すべき時に来ているのではないでしょうか。
誰かに喜ばれることは素晴らしい。 でも、喜ばれるためには、自分自身が健やかで満たされていなければ続きません。
サービスの価値には、対価があって当然。 それを支払える人に届けてこそ、双方にとって健全な関係が築けます。
「無料で」「気軽に」──その言葉の裏に、誰かの努力や尊厳が眠っていないか。 今一度、私たち自身が提供者であると同時に、受け手としても、自覚を持って選択していく必要があると思うのです。
自分の土俵で勝つ。兵法の基本です。
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