就職氷河期世代?いや、雑巾世代だろう!
昭和47年から昭和50年前後に生まれた私たちは、世間から「就職氷河期世代」と呼ばれることが多い。
しかし、私の実感としては「氷河期」というよりも「雑巾世代」という表現のほうがしっくりくる。
生まれてから今日まで、何かと「自分たちが汚れ役を引き受けてきた世代」だと感じるからだ。
生まれた時から「不景気の洗礼」
私たちが幼少期を迎えた頃、日本はすでにオイルショックに揺れていた。
トイレットペーパーの買い占め、灯油や食料の値上がり。
子どもながらに「世の中は不安定で、欲しいものは簡単には手に入らない」という感覚を刷り込まれた。
小学生になる頃にはファミコンが登場し、世間を席巻していた。
だが、当時の家庭では「努力して家事を手伝わないと買ってもらえない」ものだった。
皿洗い、掃除機がけ、弟妹の世話。そうした積み重ねの末、やっと手にしたファミコンの重みは、子どもながらに一種の勲章のように感じたものだ。
ところが、弟や妹といった次の世代にとっては、最初から家にゲーム機があるのが当たり前。
私たちが汗をかいてようやく手にした「小さな贅沢」が、彼らにとっては日常の風景だった。
その体験の差は、私たちの「我慢強さ」と同時に「損な役回り」を強く意識させるものだった。
学生時代に見た「夢と幻」
思春期を迎える頃、テレビにはおニャン子クラブが溢れ、街はバブル景気に浮かれていた。
高級ブランドを両手に抱える大人たち、六本木で豪遊する社会人、そして「金さえあれば人生はバラ色」という空気。
私たちはその光景を羨望とともに見ていた。
「大人になったら、きっとあんな華やかな時代が待っている」――そう信じていた。
だが、いざ就職活動を迎える頃には、バブルは崩壊していた。
企業の採用は一気に絞られ、「新卒採用なし」とする企業も珍しくなかった。
就職氷河期という言葉の通り、私たちは社会の入口で凍りつかされた。
夢の入り口に立ったはずが、いきなり扉を閉ざされたのだ。
社会に入ってからは「使い捨て」
それでも何とか就職できた者もいた。
だが、待っていたのは「使い捨て」という言葉が似合う現実だった。
「お前の代わりはいくらでもいる」
そんな言葉を浴びせられるのは日常茶飯事。
パワハラやセクハラが問題化する前、それを身を挺して耐えていたのが、まさに私たちの世代だった。
さらに世代間のギャップは大きかった。
上の世代は「24時間働けますか?」と鼓舞されつつも、移動時間にぐっすり眠り、時には「ハンコを押すため」「握手をするため」だけの出張も多かった。
今の政治家の外遊を見ていると、その名残を色濃く感じる。
「土曜日はほとんど働かなかった」と豪語する先輩もいた。
その一方で、私たちは日帰り出張や深夜バスを強いられ、成果が出なければ「有給で処理しろ」と言われ、自腹を切らされた。
サービス残業は当たり前。仕事が終わらなければ「自己責任」とされた。
さらに「派遣」という制度が社会に本格的に定着したのも、私たち世代の時代だった。
正社員採用を減らし、その代わりに派遣社員を増やす。
だが実際に儲けを得たのは労働者ではなく派遣会社だった。
雇用の不安定さと不平等を最初に強烈に経験したのも、私たちだ。
上の世代が築いた「美談」と、私たちが引き受けた「現実」。
その差はあまりに大きく、まるで社会の汚れを吸い込む雑巾のように扱われていた感覚は忘れられない。
今ある「綺麗な社会」の裏側
今の社会は、一見すれば整っている。
ハラスメント防止、ワークライフバランス、コンプライアンス。
「働き方改革」という言葉も当たり前になった。
だが、その背景には、雑巾のように耐え、吸い込み、すり減ってきた私たち世代の存在がある。
私たちが表に出せなかった不満や怒りが、次の世代にとっての「改善」につながっているのだ。
それゆえに私は「就職氷河期世代」という呼び名よりも、「雑巾世代」という表現の方がしっくりくる。
氷河はただ冷たいだけだが、雑巾は汚れを吸い込み、他人のために身を削る。
その役割を負わされてきた実感が強い。
雑巾のまま終わらないために
ここまで私たちの世代を「雑巾世代」と呼んできた。
だが、本当に雑巾のように擦り切れ、捨てられて終わってしまって良いのだろうか。
私はそうは思わない。
むしろ、今だからこそ「過去に奪われたもの」を取り戻すことができるのではないだろうか。
10代の頃に十分に満たされなかった体験や感情は、意外なほど人生全体に長く影響を与える。
「本当は欲しかったけれど我慢したもの」
「心の中では羨ましいと思っていたけれど諦めたこと」
「やりたかったけれど、時代や状況が許さなかったこと」
こうした未消化の思いは、心の奥底でずっとくすぶり続けている。
雑巾世代は、まさにその「欠けた青春」を抱えたまま大人になった人が多い。
だからこそ、今の年齢になった私たちがやるべきことは、
少し背伸びをして、自分自身に贅沢を許すこと だと思う。
「小さな贅沢」は魂を癒す行為
贅沢と言っても、豪華客船で世界一周をする必要はない。
むしろ日常の中の小さな贅沢が大切なのだ。
例えば――
子どもの頃に食べられなかった高級アイスを、あえて買ってゆっくり味わう。
当時憧れていたブランドのバッグや腕時計を、中古でもいいから自分の手にする。
学生時代にお金がなく諦めた旅行先へ、今になって足を運んでみる。
本当はやりたかったけれど習えなかったピアノや絵画を、大人になった今こそ学んでみる。
これらは単なる「消費」ではない。
自分の魂を慰め、若き日の自分を抱きしめ直す行為 なのだ。
雑巾のように他人のためにばかり汚れ役を担ってきた私たち。
だからこそ、自分自身に「ご褒美」を与えることが、魂を再生させる唯一の方法なのだと思う。
「10代で満たされなかった思い」の力
心理学的にも、思春期に満たされなかった欲求は、成人後も強く影響すると言われている。
雑巾世代はちょうどこの「喪失感」を多く抱えて育った。
・本当は部活動に集中したかったが、家の手伝いが優先された。
・最新のゲーム機やファッションを買えず、周りに合わせられなかった。
・家庭の経済状況から、塾や習い事を諦めざるを得なかった。
こうした体験は、心に小さなトゲのように残り続ける。
だが今、そのトゲを抜くことはできる。
「遅すぎる」ということは決してない。
むしろ今だからこそ、その痛みを理解し、癒やす力を持っているのだ。
贅沢は「未来の投資」
雑巾世代の多くは「自分のためにお金や時間を使うこと」に罪悪感を持っている。
節約が美徳、我慢が当然、という価値観に縛られてきたからだ。
だが、その思考を変えなければならない。
小さな贅沢は「無駄遣い」ではなく「未来の投資」だ。
たとえば――
少し良いワインを買って、ゆったりとした時間を過ごす。
温泉旅館に一泊して、心身を癒やす。
好きなアーティストのコンサートに行き、青春の続きを取り戻す。
これらは一見すればただの娯楽に思えるかもしれない。
だが実際には、潜在意識に「私は報われている」「私は満たされている」という感覚を刻み込む行為だ。
その感覚が積み重なることで、自己肯定感は高まり、次の行動に前向きな力を与えてくれる。
雑巾としてすり減るだけの人生から、雑巾で自分を磨き、輝かせる人生へと変わるのだ。
「雑巾世代」の誇りを取り戻す
忘れてはならないのは、私たちの世代が果たした役割だ。
私たちが吸い込んだ汚れや、受けた痛みは、確実に次の世代の生きやすさにつながっている。
もし私たちが雑巾として耐え抜かなかったなら、今の社会はもっと荒んだものになっていたはずだ。
つまり、雑巾世代は「犠牲者」であると同時に「礎を築いた世代」でもある。
それを忘れてしまってはならない。
その誇りを胸に、自分自身に贅沢を許し、心を癒すこと。
それこそが、雑巾世代が雑巾のまま終わらないための最終章だと、私は思う。
具体的なステップ
最後に、実際に雑巾世代が「魂を拭き清める」ためにできることを整理しておこう。
小さなご褒美を毎週取り入れる
週末に好きなスイーツを買う、普段は飲まない少し高いコーヒーを選ぶ。10代で諦めたことを書き出す
当時やりたかったけれどできなかったことをリストにする。一つずつ叶えていく
旅行でも趣味でも、手の届く範囲から実現していく。「自分を癒す行為は社会的に価値がある」と自覚する
それは自己満足ではなく、次の世代に誇りを伝えるための行動だと理解する。
結論:雑巾で自分を拭き清める未来へ
雑巾世代は、確かに使い捨てのように扱われてきた。
だが、雑巾は最後に「自分自身を清める力」も持っている。
過去の欠落を癒やし、小さな贅沢を許し、魂を磨き直すことで――
私たちはただの犠牲の世代ではなく、誇りをもって生き抜いた世代として未来に記録されるだろう。
雑巾として終わるのか、雑巾で輝きを取り戻すのか。
それは、今この瞬間の私たちの選択にかかっている。
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