40代50代で「あえて振り返る」言葉
久旱逢甘霖。他乡遇故知。洞房花烛夜。金榜题名时。
中国には、「人生四大喜事」と呼ばれる古い言葉があります。
これは、北宋時代(960〜1127年)の学者・汪洙(おうしゅ)がまとめたとされる童蒙書『神童詩』に収められている詩句です。
『神童詩』は、当時の子どもたちに人生の教訓や勉学の大切さを教えるための書物で、科挙(官吏登用試験)を目指す若者たちに広く読まれていたと言われています。
つまりこの四つの喜びは、単なる格言ではなく、「人が本気で努力し、生き抜いた先にある喜び」として、千年近く語り継がれてきた言葉なのです。
現代語に訳すと、次のようになります。
長く続いた干ばつの後に、恵みの雨が降ること。
見知らぬ土地で、思いがけず旧友に再会すること。
結婚し、華やかな初夜を迎えること。
厳しい試験に合格し、自分の名が掲示板に載ること。
正直に言うと、初めてこの詩句を知ったとき、私は「よくできた四字熟語だな」くらいにしか思いませんでした。
でも50代になった今、あらためて読み返すと、まったく違う景色が見えてきます。
若い頃は「結果」だけを見ていた
若い頃の私は、この四つの喜びを「結果」としてしか見ていませんでした。
雨が降ったこと。友人に会えたこと。結婚できたこと。合格したこと。
どれも「手に入れば嬉しい出来事」であって、それ以上でも以下でもないと思っていたのです。
人生の目標とは、こういう「わかりやすい成功」を積み重ねることだと、なんとなく信じていました。
就職し、結婚し、昇進し、何かに合格する。
そういう節目節目で喜びを感じられれば、それでいい人生なのだろうと。
薬剤師として働いていた頃の私も、資格試験に合格した瞬間の達成感を「ゴール」だと思っていました。
でも今振り返ると、あの喜びは、合格という結果そのものよりも、その前の長い勉強の時間があったからこそ、大きく感じられたのだと気づきます。
干ばつがなければ、恵みの雨もない
この詩句をもう一度読むと、大事なことに気づきます。
「久旱逢甘霖」という言葉には、必ず「久旱」——長い干ばつ——が先にあります。
雨そのものが喜びなのではなく、干ばつという苦しい時間があったからこそ、雨が「恵み」になるのです。
同じ雨でも、普段の雨なら誰も気に留めません。
長く苦しい時間を経たからこそ、その雨に涙が出るほどの喜びを感じる。
これは、私自身の人生を振り返っても、思い当たる節がたくさんあります。
日本で薬剤師として働いていた時期、日本語教師への転身を決めた時期、オーストラリアに移り住んで生活の基盤を作り直していた時期は、正直、思うようにいかないことばかりでした。
生徒がなかなか集まらなかった時期。慣れない土地で、言葉や制度の違いに戸惑った日々。
それでも、少しずつ生徒さんが増え、「先生のおかげで日本語が好きになりました」と言われた瞬間の喜びは、今でも鮮明に覚えています。
もし何の苦労もなく、最初からすべてが順調に進んでいたら、同じ言葉をかけられても、これほど嬉しくは感じなかったかもしれません。
「他乡遇故知」——遠い場所だからこその再会
「他乡遇故知」も、同じ構造を持っています。
故郷で旧友に会っても、それほど特別な感情は湧きません。
「遠い異郷にいる」という孤独や心細さがあるからこそ、そこでの再会が、かけがえのない喜びになるのです。
オーストラリアに住んで日本語を教えていると、この感覚は、よくわかります。
見知らぬ土地で、同じ言語や文化を分かち合える人と出会う瞬間は、日本にいた頃には感じたことのない温かさがあります。
たとえば、現地の日本語学習者コミュニティで知り合った方と、故郷の話で盛り上がったとき。
あるいは、オンラインで指導している生徒さんが、実は同じ時期に同じような転機を経験していたと知ったとき。
そうした「思いがけないつながり」は、苦労や孤独を経たからこそ、より深く心に響くのだと思います。
40代、50代になると、こうした「気が合う人との出会い」自体が、以前より貴重に感じられるようになった、という方も多いのではないでしょうか。
若い頃は当たり前だった友人関係も、年齢を重ねるにつれて、意識的に築いていかなければ得られないものに変わっていきます。
だからこそ、思いがけない再会や新しい出会いの喜びは、若い頃よりもむしろ大きくなっている——そんな実感があります。
「洞房花烛夜」——結婚の喜びも、積み重ねの先にある
三つ目の「洞房花烛夜」は、結婚の初夜を指す言葉です。
「花燭」とは、龍や鳳凰などの模様が描かれた婚礼用の華やかなロウソクのこと。日本語にも「花燭の典(結婚式の意)」という言葉として残っています。
現代の感覚からすると、結婚は「四大喜事」の中では、やや古めかしい項目に思えるかもしれません。
でも、これもよく考えると、「久旱逢甘霖」と同じ構造を持っています。
出会いを重ね、時には気持ちがすれ違い、迷い、悩んだ末にたどり着く結婚です。
その過程がなければ、初夜という瞬間も、ただの一夜に過ぎません。
これは、夫婦関係だけの話ではないと、私は思っています。
40代、50代になると、結婚生活そのものが、新たな「節目」を迎える時期でもあります。
子育てが一段落し、夫婦二人の時間が戻ってくる。
あるいは、これまでの関係を見つめ直し、あらためて相手と向き合う機会が増える。
そうした時期にふと訪れる、穏やかで温かい時間——たとえば、何気ない会話の中で「ああ、この人と一緒にいてよかった」と感じる瞬間——も、私にとっては、現代版の「洞房花烛夜」なのかもしれません。
長年連れ添ったからこそ味わえる喜びが、たしかにあるように思います。
「金榜题名时」——努力が形になる瞬間
四つ目の「金榜题名时」は、科挙の合格発表を指します。
科挙とは、中国の官吏登用試験。何年も、時には何十年もかけて勉強し、ようやく挑む一発勝負の試験です。
合格者の名前は「金榜」と呼ばれる掲示板に貼り出され、そこに自分の名を見つけた瞬間の喜びは、想像するだけでも胸が熱くなります。
現代で言えば、難関資格試験への合格、あるいは長年目指してきた目標の達成に近いものでしょう。
私自身、薬剤師の国家試験に合格したときの記憶は、今でも鮮明に残っています。
ただ、50代になった今思うのは、「金榜题名」は、若い頃の一度きりの出来事ではないということです。
日本語教師として、生徒さんがJLPTに合格したという報告を受けたとき。
書いたnoteの記事に、思いがけず多くの方から反応をいただいたとき。
長年温めてきた小説の構想が、ようやく一つの形になったとき。
こうした瞬間もまた、私にとっての「金榜题名」だと感じています。
若い頃のように、人生を左右する一発勝負の試験ではないかもしれません。
でも、地道な努力が、静かに形になっていく瞬間の喜びは、本質的には同じものではないでしょうか。
喜びは、出来事そのものではなく「文脈」の中にある
こう考えていくと、「人生四大喜事」が教えてくれるのは、実は「四つの出来事のリスト」ではないのかもしれません。
大事なのは、出来事そのものよりも、その出来事が置かれている「文脈」ではないでしょうか。
雨が降ったという事実よりも、その前にどれだけ渇いていたか。
友人に会えたという事実よりも、その前にどれだけ孤独だったか。
結婚できたという事実よりも、そこに至るまでどれだけ迷い、悩んだか。
合格したという事実よりも、そこに費やした時間と努力の積み重ね。
喜びの大きさは、出来事そのものの大きさではなく、それ以前の「渇き」の深さに比例するのだと思います。
これは、40代、50代になった今だからこそ、実感として理解できることかもしれません。
若い頃は、渇きの時間そのものが苦痛で、一刻も早く終わらせたいと思っていました。
でも今は、あの渇きの時間があったからこそ、今の喜びがあるのだと、少し余裕を持って振り返ることができます。
50代になって、四大喜事を書き換えるなら
もし今、自分なりに「人生四大喜事」を書き換えるとしたら、私はこう考えます。
思うようにいかない時期を、腐らずに耐えたこと。そして、その先に小さな光が差した瞬間。これこそが、私にとっての「久旱逢甘霖」です。
異国の地で、日本語という共通点だけを頼りに、生徒さんと心が通じ合った瞬間。これは、私にとっての「他乡遇故知」です。
長年連れ添った相手と、何気ない日常の中でふと感じる穏やかな喜び。これは、私にとっての「洞房花烛夜」です。
そして、若い頃に思い描いていた自分とは違う形であっても、今こうして創作や学びに向き合い、それが誰かに届いていく日々。これもまた、私なりの「金榜题名」なのかもしれません。
AI,コスパ、タイパの時代にこそ、思い出したい言葉
前回、「タイパ」について書きました。また日に日に普及するAIや存在感を増すSNSなどの新時代の発想と、この四大喜事の考え方とは真逆にあります。
苦労や渇きの時間を、できるだけ短く、できればゼロにしたい。それが今の時代の空気です。
でも、この千年前の言葉が教えてくれるのは、渇きの時間があるからこそ、その先の喜びが本物になる、ということです。
すべてを効率化し、渇きを感じる前に答えを与えられてしまう時代だからこそ、あえて「久旱」を経験することの意味を、私たちはもう一度考えてもいいのかもしれません。
40代、50代というのは、これまでの人生で、いくつもの「久旱」を経験してきた世代です。
その渇きの一つひとつが、実は今の自分を形づくる、かけがえのない土壌だったのかもしれません。
千年前の詩句が、そんなことを、今の私に教えてくれた気がしています。






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